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2012GW 台北へ 湖口服務區 [徒然草]

湖口服務區
后里交流道から中山高速公路(台一線)で土砂降りの三義を抜けて、どっと疲れが、、、もう少し走れば中壢なのですが、、、飯時でもあるし、高速のサービスエリアに立ち寄りました。基本的には日本と同じく、レストラン、軽食、売店、厠所、、、此方は湖口老街の舊宅を模した入口になっています。

湖口-中壢を結ぶ力車の招呼站、、、

内部はすっかり湖口老街、、、う~~んん、たしか、以前に立ち寄ったときは何も無かった服務區と記憶していましたが、、、

懐舊便當には長蛇の列。排骨、雞腿、、、三種から選べます。その他麺食のお店や、點心のお店、麺包や珈琲のお店もあります。

ステンレスの器に入った懐舊便當。過去を知りませんので懐かしくも何ともありませんが、やはり、昭和の香りがするお弁当箱です。残念ながらお持ち帰りは出来ません。

排骨便當、、、大方、便當といえば排骨が主流。醤油味で炒め煮された豚のリブと素雞に青梗菜。漬物類がぎっしりと排骨の下に敷かれています。S.Aの便當ですが、こりゃぁ美味しいです。長蛇の意味が解かりました。左は貢丸湯。腰のある肉団子は米粉と並ぶ新竹の名産品です。
それでは高鐵桃園站へ向けてもうひとっ走り。

高鐵桃園站の格上租車で到着確認。本日は忙しいようで、同じレーンに入った車の出発手続きが終えるとすぐに私の到着手続き。荷物を降ろしている間にOKって署名を促されて、停車場に向けて走り去ってしまいました。あぁ、半分残った御茶園持ってかれちゃった、、、で台北までは高鐵で、、、台北市内は交通量が多いし、規制は多いし、駐車場が無いし、、、公共交通もふんだんにあるし、租車する意味はありませんからねぇ

んじゃ、20分少々の列車の旅~~20分でも爆睡。

台北火車站から計程車で林森北路の飯店へ、住宿登記前に隣の通化街胡記米粉湯で外帯した米粉のスープで小腹を落ち着かせて夜に備えます。米粉湯と米苔目ってどこがどう違うのでしょう。スープが違うってかーーー解からん。
台中市 后里區 [文化財]

舊台中航空站(臺中水湳機場)
台中3日目です。本日は西屯區から潭子區、后里區の歴史建築を見て、台北に戻ります。で、朝から雨、しかも土砂降り、、、文華路-漢翔路-黎明路三段-中清路から民航路に入り陸軍三十六航空隊廠房及兵舍があるはずの一番奥の100號を探しますが、付近は再開発中で建物と言う建物がありません。が、唯一水湳機場時代のターミナルが残っていましたので撮影しておきました。台中飛行場は日本時代の軍用飛行場で、台中州内の唯一の民用飛行場としても利用され日本との定期便も就航し、2004年に清泉崗機場に移転するまでの50年間国際空港としての役目を果たして来ました。台中市政府は市内最後の空地として跡地を台中水湳經貿生態園區として開発するため2007年に大部分の用地を国防部より移管しました。元々は日本時代の軍用飛行場ですから他にも遺構は数々残されているはずですが、これはもう時間の問題であるような気がします。

内埔庄役場[市定古蹟]
再び中清路に戻って環中路一段から中山路二段(台3線)に潭子街三段で潭子農會穀倉を見るはずだったのですが土砂降りであるのとあまりにも潭子站に近い踏切の傍らにあるために駐車も撮影も出来ない状態。断念して中山路二段(台3線)で豐原市内に入り圓環南路(台13線)-中正路(台10線)と走って豐原交流道から國道1號で后里交流道まで走って甲后路(132縣道)で后里市街地に入りました。
昭和9年(1934)に内埔庄役場として建てられた役所建築で、現在は后里區公所として使用されています。隣接して木造の図書室も保存されています。撮影後は土砂降りで、敷地内に残る防空壕や焼却炉の見学は断念しました。

月眉糖廠 原辨公室
断続的に続く土砂降りに今日は諦めて帰路につこうと后里交流道手前で最後の給油をしている間に小降りになってくれました。駄目もとで交流道を越えて台糖月眉観光糖廠に向かってみました。原辨公室を撮影後は再び雨。工場内を見学したり、糖倉休間購物街を冷やかしたり。

月眉糖廠「製糖工場」[歴史建築]
僅かな雨止みを衝いて工場全貌を撮影しました。日糖株式會社の大甲製糖所として小松楠彌により明治42年(1909)に建てられ、日産200tonを圧搾していました。大戦中の爆撃により工場ならびに生産装置に重大な被害が出ましたが二年後には生産を復旧させ750tonを圧搾しました。光復後は臺灣糖業股份公司月眉糖廠が生産を引継ぎますが、1999年に生産を停止し觀光糖廠となりました。

工場内を割りと自由に見学できます。各機能部品ごとに塗り分けられた圧搾機がずらりと並びます。稼動中の騒音は如何な物だったでしょう。

此方は煉瓦炉に置かれた煮込み釜でしょうか。割りと装置に近づいて見学できるようになっていて興味深く見ることが出来ました。

此方の工場の見所の一つは囪底隧道です。煉瓦造りの煙突に入って上を眺めると土砂降りの雨が入ってきます。故に床も水浸しでした。まぁ、中々出来ない体験でした。

工場中央に保存された369號蒸気火車頭は民國37年から原材料や製品の運搬に使用されました。民國61年まで407,917.8kmを走ったようです。

此方は月台に横付けされた軌道幅の狭い五分車です。

月眉糖廠 原材料倉庫
此方が糖倉休間購物街になっていまして、大型観光バスで乗り付けた大陸人観光客に占拠されていました。工場内には誰も居なかったのにねぇ、、、
さて、雨の中を台北に向けて戻ります。
2012GW 台中 逢甲夜市 [喰らう]

逢家現炒海鮮
逢甲大学校門を中心に広がった逢甲夜市一日目の食事です。用心のため傘を片手に出かけて見ましたが、水曜日がお休みなのかな。お店は半数ほどしか開いていませんし、メインストリート界隈のお店は殆ど閉まっています。福西路沿いで快炒のお店を見つけました。店内は空いていましたが外帯のお客さんが多く、注文から結構時間が掛りました。

葱爆羊肉 80元
葱と羊肉の炒め物です。流石80元、羊が少ないです。味はOKです。

宮保花枝 100元
イカの甘辛炒め。此方も烏賊が少ないような。しかも烏賊臭い。南京豆は美味しいですけど、此方はあまり手をつけませんでした。

絲瓜蛤蜊 100元
糸瓜と蛤の生姜味のスープです。此方はバッチリ美味しい。しかも100元。100元快炒と言えども100元が最低ラインのお店が多い中、流石は逢甲夜市で此方では清蒸魚だってたったの120元ですから台北との価格差は大きいですね。しかも、白飯と湯、茶水は免費無限量です。

台中名物は圧倒的に雞排。特に繼光香香雞なのですが。お休みです。ホテル至近のあまりお客さんのいないお店で大雞排を外帯します。ガンガン揚げて機車で立ち寄るお客さんがどんどん持ち帰って行きます。私のはまだぁぁぁ 電話予約が主流みたいです。

更に隣のお店で百香果汁を外帯して本日のLOGを整理したり画像をバックアップしたり、明日の予定をNAVIに入力したり。最近は玩具の持込が多くて忙しくなってきています。それでは玩具に充電して明日に備えます。 晩安~~

小西蔵館
逢甲夜市二日目の食事です。何とか雨が上がってくれました。部屋でのんびりしながら西蔵料理のお店を見つかましたので夜市の北端から南端まで歩きます。本日はお店も全開です。此方では八分目にして置きましょう。

夜市界隈のお店とは思えないほど、西蔵の雰囲気に満ちた店内。集銀台上にはチベット国旗が。西蔵加油~~

蔵式辣味雞 280元
唐辛子二つマークでしたが、中々バランスの取れた辛味でした。店内の照明が暗くて美味しそうに撮れていませんねぇ しかし、280元はちょっと高いような、、、

と、思いきや印度烤餅が付くんですね。ちぎったナンでおかずを抓んで食べれば瞬く間にお腹がいっぱいです。実は蔵式羊肉飛碟炸餅も注文しておいたのですけど慌ててキャンセルしました。

マンゴラッシーです。本日は酒精を抜きます。えーーっと、夜市に来ていますのでこんな飲み物は屋台で芭果優酪でも飲んだ方が良かったのかもしれません。

呉記QQ腸粉
蝦仁腸粉 55元
一家之薯起司洋芋
德式香腸起司 50元
小西蔵館を見つけた同じサイトから二軒のお店をチョイスして外帯しました。先ずは呉記の粉腸。美味しそうでしたが、ホテルで食べる頃には冷めてしまってくっついちゃって味は悪くないけど残念な結果に。まぁ、台北の飲茶やで喰うとなると150を超えますからねぇ
一家之薯の起司洋芋。とろけるチーズとポテトが良いなぁと思ったのですけど、起司醤だそうで、ジャガイモも徹底してしゃもじでカットしたせいかマッシュポテトみたいな食感になってました。そう思えば美味しいのですけど。
そして昨日のお店で外帯した葡萄柚果汁はチルドでしたぁぁぁ
さてさて本日も電子玩具の整理をしてから寝ます。本日はお疲れ気味。 晩安。
台中市 石岡區、東勢區 [文化財]

石岡郷農會碾米穀倉[歴史建築]
華豐街(中97-1郷道)-協興街(中98郷道)-興社街一段(中95郷道)-興安路-中和街四段240巷に入って行ったり来たりしましたけど結局2號が見つからずに殉職山岡先生之碑を諦めて、中和街四段(129縣道)から豐勢路國中巷で河岸段丘を下って豐勢路(台3線)で石岡市街地に入りました。
昭和17年(1942)に建てられた石岡農會の精米穀倉です。昭和10年(1935)の震災の経験から強固な工法が取り入れられた木造建築で921地震後も部分的な損傷を受けましたが健在でした。現在は修復されて展示館として機能しているようですが、、、機能していないような、、、穀倉内部には木構造の精米装置や貯蔵空間が保存されているようなのですが整理整頓されておらず照明も消されている状態。まぁ、台湾の平日の観光ってのはこんな物かなぁ、、、
その後は自行車にて東豐緑色走廊を走って石岡車站、梅子車站、921地震公園、大甲溪鐵橋を回って本日の観光を終了の予定でしたが空模様は予報どおり悪く、ポタリングは中止しました。東豐緑色走廊は廃線となった東勢線を自転車専用道路にしたもので、故に鉄道遺跡が多く残る自転車道であると供に、921地震の爪痕をそのまま見ることが出来る自転車道です。

921地震公園(石岡斷霸公園)
豐勢路(台3線)から石城街(中44-1郷道)に入って長庚大橋で大甲溪を超えて石城街石山巷(中44郷道)に右折して、指示通りに河原に下りましたら、此方ではないようです。ま、破壊された堰が良く見えました。
石岡水壩は車籠埔断層の上に建設され921地震により15号から18号の閘門が被害を受けました。国民にとって忘れえぬ地震の被害が最も被害の大きかった16号閘門を当時のまま保存し國家震災景觀紀念地として整備されました。また16号閘門後方には大甲溪の魚類の生態を保護するために試験的に魚道が設けられました。
1977年に完成したダムは大甲溪最下流の調整池として1061㎢という大甲溪の流域面積の85%を占め台中市區に供給される110万頓の公共用水の内90万頓を供給しています。

ちょっと移動して公園の入口を探します。石山巷に戻って湖岸咖啡園の傍らに案内板を見つけましたら、小姐が車を誘導してくれました。此方は咖啡園の停車場であったようです。ま、此方から公園までは徒歩で至近ですが、公園に向かうと正規のゲートがありました。駐車スペースが限られているので湖岸咖啡園に停車で正解であったかも知れません。ここで、とうとう土砂降りです。自行車をキャンセルして正解。
公園には地震発生の時刻、88年09月21日01時47分12秒が刻まれ、一方には東経120.78北緯23.85規模7.3震度8.0が刻まれています。

このダムの被害は早い時期にTV報道されて濁流の中の倒壊した閘門が映し出されていた記憶があります。現在は補強が成され上に登って改めて被害の凄まじさを目の当たりに出来ます。強固な構造物も地球がちょっと痙攣しただけで修復できないほどの被害ですね。此方から眺めると断層がずり上がった高さを改めて実感できます。

湖岸咖啡園
免費停車ですのでねぇ、しらばくれる訳にも行かないし、どうせ雨だし、雨宿り代わりに咖啡を一杯。晴れていれば此方の主楼よりも湖岸よりのテラス席がお勧めです。咖啡の味も悪く無かったです。さて、これからどうしましょうかねぇ

舊山線鐵道—大甲溪鐵橋[歴史建築]
石城街石山巷(中44郷道)から豐勢路二段1131巷に入って埤豐橋を渡って大甲溪を超えて豐勢路二段(台3線)に戻ります。 台中環線(國道4號)から朴子街(中80郷道)に入ります。雨は小降りになったり、土砂降りになったり。止む気配がありません。現着と供に小降りになりましたのでなんとか撮影をこなしました。
明治41年(1908)に建設された舊山線の后里-葫蘆墩(今豐原)の大甲溪に架けられた鉄橋です。民國87年に新山線が開通し台中縣政府により后豐鐵馬道の一部に編入されました。現在、橋を渡れるのは自行車のみで、橋を渡った対岸で舊山線9號隧道を見ることができます。后豐鐵馬道は更に9號隧道を潜って后里馬場まで続いています。
撮影を終えたら早速、土砂降り。午後からは撮影中のみ雨が上がったり小降りになったり。昨日の空難碑をお参りした効果が出たようで、ほぼ予定を完了して台中に戻ります。台中環線(國道4號)に戻って台中系統交流道から中山高速公路(國道1號)に入り 大雅交流道で市街に入りました。夕方にはまりましたがさほどの渋滞は無かったのですが、福星路交差点で事故渋滞にはまってしまいました。雨は降り続き、これは傘をさしての夜市見物になりそうです。
白冷圳(2) [文化財]

馬鞍壩
中部橫貫公路(台8線)を更に上流に向かいます。1998年に竣工したコンクリート製重力ダムで堰により天輪壩、馬鞍壩間の水量を調整すると供に、馬鞍發電廠への給水を行っています。台湾で最初の自国設計による魚道が設けられています。貯水面積:916.4㎢、総容量:96.5万㎥、有効容量:57.5万㎥、堰堤高さ:16.3m、堰堤長:229.5m、発電取水口:幅6.4m高さ8.2mです。

白冷吊橋
中部橫貫公路(台8線)で少々上流に向かい橋の袂に車を止めます。確証は無いのですが、白冷圳-入水口は此方の橋を渡った三民巷の小路を右に折れて少々山道を歩くようです。心配された雨も小降りになりましたので続行する事にしました。橋長158m、幅2.5mですので結構余裕はあります。

白冷圳-入水口[歴史建築]
三民巷を抜けて山道を少々歩いておそらく事務所跡であろう遺跡を過ぎて川面に降りる階段を下ります。部落格の情報の通りにありました。入水口として此方の写真が掲載されていますが此方は白冷圳に取水する水量を調整する制水井で直径は6.06m、深さは20.61mです。

20mの深さを恐る恐る覗いてみました。といっても井戸にカメラだけを向けた出かですが、20mあると言うことは、大甲渓がここまで増水するのでしょうか?

此方が入水口(取水口)です。921地震により海抜が2.2m上がってしまいましたが設備の損傷は無かったようです。

入水口の外壁は綺麗に補修されているようです。構図の悪い写真ですが対岸から撮れなかった場合を考え撮影しておきましたが、案の定川原に降りる事は出来ずにこれが唯一の外壁を撮影した写真になりました。

山道を戻りながら事務所跡であろう遺構から石段を撮影しました。石段の上が神社遺構か竣工記念碑かと思いましたけど何も確認できませんでした。唯一階段途中の平らな部分は施工時の軽便鉄道の跡であるそうです。それでは吊橋を戻ります。

大甲溪發電廠天輪分廠
雨が上がりましたので、白冷吊橋から山頂から圧力水管の伸びる天輪發電廠を遠望してみました。大甲溪流域には德基、青山、谷關、天輪等の発電所が存在し、天輪分廠にて遠隔操作を行っています。総発電量は1137.165MWです。天輪は調整池式水力発電所で新旧2箇所の発電所にフランシス竪軸水車を5機供えています。旧発電所内に22.5MWを4機、新発電所内に105MWを1機供え、総発電量は195MWです。

台湾電力と言えば冰棒。此方にもありました。白冷冰棒、百香果冰。大甲溪發電廠員工消費合作社製冰部が運営しています。意外にも美味しい台電冰棒は電廠見学の楽しみの一つです。それでは白冷圳の終点に向かいます。

原野休間中心
白鹿吊橋の近くに見つけておいた餐廰に営業中の看板が出ていました。客家菜が食えそうなので入ってみます。何せ、この先食物にあり付けるかどうかは解かりませんからねぇ

庭園を回って野趣に富んだ原野餐廰で食事です。

客家板條
客家菜といえば粄條ですが此方では板條と書いてありました。溢れんばかりのとんでもない量で出てきました。私は太ってますけど見た目ほど食えないのですよ、、、美味しいのですけど油っこく炒めてありまして鱈腹食ったらもたれそうなので半分で止めておこうと思いましたらなんと3分の1ほど食べてギブアップでした。

山豬肉
山豬あるいは山猪と書きますが、イノシシ肉の炒め物です。山間部、原住民集落で食える原住民料理です。脂の無い柔らかい肉が美味しいです。此方は絶品でした。でも、硬くないって事に依ると此方でもイノブタを養殖しているのかも知れません。

白冷圳-圓堀
中部橫貫公路(台8線)を下流に戻り、龍安橋から豐埔產業道路(中95-1郷道)に入ります。2號倒虹吸管を超えて興和產業道路/(中95郷道)で山を越えて中93郷道で新社の台地に入ります。一気に登っている倒虹吸管と違って郷道は九十九折れのタイトな道でした。華豐街(中97-1郷道)かを右折し興隆街交差点付近です。
白冷圳入水口から終点の圓堀に向かいます。こちらの場所も新社區新五村付近をGoogle Mapで探して水路が分岐する丸い堀を見つけて特定できました。入水口から16.6km車で走ると少々距離が伸びて19.1kmです。直径10m、深さ2.5mで写真の向かい側から白冷圳が入ってきます。手前には馬力埔支線と大南支線の二つに分岐され現在でも新社の大地を潤しています。此方から大甲溪まではかなりの高低差で広大な台地を潤すためには強力な揚水ポンプが必要であったと思います。支線に流れ込む白冷の水を見ていると、る白冷から僅か23mの落差で動力を全く使用しない用水路を建設した先人の知恵と技術、努力に感動します。
空は相変わらずの雨模様で降ったり止んだり、時折土砂降りとなります。本日のメインの行程は無事に終了しましたので、後はお天気と相談しながら台中に戻ります。次は同じ新社にある殉職山岡先生之碑。こういった碑はついでが無いとわざわざ見に行くのが億劫な場所なのでコースに入れました。では、行って見ましょう。
白冷圳(1) [文化財]

金門橋[歴史建築]
台湾3日目。雨模様の天気が心配です。特に昨日同様午後から降るでしょうねぇ、、、と思いながらも寝過ごしてしまいました。おまけに高速の入口を上り下り間違えてしまたぁぁぁ 今日も30分遅れ、それでもなんとか中山高速公路から国道4号、台3線、中部橫貫公路(台8線)と乗り継いで東勢區の巷に入ってちょいと寄り道です。これ以上車で入れそうに無いので途中からNAVIを外して徒歩で向かいます。さすがPORTABLE NAVI。
此方は日治時期昭和16年(1941)に竣工した石造りの小橋です。当時の下城里の客家集落は灌漑用に築いた水路に架けられた橋です。橋の傍らは一段水面に近い場所があって、婦女は此方で洗濯をし、水路、橋と供に極めて特色的な歴史景観となっているそうです。残念ながら私には何のことか解かりません。

白冷圳—抽藤坑倒虹吸管(2號倒虹吸管)[歴史建築]
再び中部橫貫公路(台8線)で龍安橋を超えて豐埔產業道路(中95-1郷道)で山裾を回ると目の前に現れます。寄り道しながらも、台中から凡そ二時間。地図上の直線距離は台中から10kmほどしかないのですが、、、
日治時代の新社大南地区の台地に大南蔗苗養成所(現種苗改良繁殖場)が開設され、灌漑のため1927年に台湾総督府が新社地区の水利設施の設計を磯田謙雄に命じ、「台中州大南庄蔗苗養成所灌溉工事」として1928年12月に起工し、1932年5月に完成し同年10月14日正式運用を開始した灌漑用水路です。磯田技師は嘉南大圳、烏山頭水庫の建設に命を捧げた八田與一技師の後輩に当たります。
単なる用水路ではないのは海抜555mの白冷の大甲渓から取水し、山超え、谷超え延々16.6km高低差23.5mの圓堀まで隧道、倒虹吸管、水橋、渡槽、暗渠に開渠で結び、灌漑面積は788haに及ぶ当時東洋最大の水利施設でした。921地震で施設の52%が損傷しましたが、2003年に修復を完了して今現在も現役で活躍しています。
中でも3箇所の倒虹吸管(逆サイホン)のうち最大な2號倒虹吸管は全長346.9m、落差81m、高低差3m。緑色の管路が当時のもので、直径1.2m、肉厚12mmの鋼管は日本で製造され高雄に水揚げされ鉄道にて石岡区八仙山に運ばれたもので、現在でも東洋一の逆サイホンとなっています。921地震後の修復で5m隣に新たな水管が設けられ、現在通水はされていませんが新旧並んだ水管が山を下り川を越えて対岸の山を登っていく姿は感慨深い物があります。此方が山を下ってくる上流側です。2003年の修復工事後歴史建築に登録されました。

そして此方が山を登っていく下流側。下流側右手には白冷圳紀念公園が整備され灌漑事業の全般が紹介されていました。

白冷圳-福龍水橋(特1号渡槽)
豐埔產業道路(中95-1郷道)を上流に向けて進みます。小路に右折しろと指示されますが、どうも無理みたいです。路肩に停車して小路を徒歩で上りました。
白冷圳工程の導水管の一つで入水口から9.06kmと表示されています。二つの山を間を渡る鉄橋に水管が備えられた水橋で、点検を兼ねてか橋上に上がれますし、2.5tonまで20kmで走行できるようです。橋の前後は暗渠になっていてその上が歩道?車道になっています。実際に機車が走って来ました。周囲は果樹園になってまして、小型のトラクターなら入れると思いますし、どうやら、暗渠の上や点検用の小道を使って散策できるようです。赤く塗られた美しい橋で周囲の緑に映える橋梁です。白冷圳の見所の一つになっています。

白冷圳-五號渡槽
さらに豐埔產業道路(中95-1郷道)を上流に向けて進み、台21線を右に曲がるとカーブの上に水橋が見えます。
福龍水橋同様に赤く塗装されていますが国道の上にあるためか煤けてしまっています。橋の傍らに登れそうな道があるので勇気を搾って上ってみました。上れば橋の袂のプレートが見えます。入水口から7.0kmと表示されていました。登ったものの、Uターン出来ずに更に上に登って平らな場所を見つけて助かりました、この辺も果樹園で丁度下から機車が来てしまいどうにもこうにもよけられないのですが機車の方で畑に入って避けてくれました。やはり車で入るのは良くないようです。

水橋の下には修復前のコンクリート製の樋が保存されています。おそらくこれが水橋の上で繋がっていたものかと思います。また、幅から推測するに暗渠部分も同じパーツなのかなと想像します。

白冷圳-1號倒虹吸管
台21線を戻り豐埔產業道路(中95-1郷道)交差点を福明國小方面に向かった小さな橋の袂から見ることが出来ます。
白冷圳に有る三箇所の倒虹吸管の最初の物で、2號倒虹吸管と異なり地味な塗装で草木に溶け込んで良く見えませんし、隣に存在する破損した旧管路は確認できませんでした。福興村阿寸溪に架かる全長129.3mの管路で圧力水頭は28.7mであるようです。
このまま大甲渓南岸を走って1號渡槽に向かえないものかと福明國小をやり過ごして上流に向かってみましたが途中で道は逆方向にカーブしてしまい。此方からショートカットは出来ないようです。

白鹿吊橋
台21線に戻って福興橋を渡って中部橫貫公路(台8線)を上流に向けて走ります。福興橋の傍らに小さな便當屋があるのですが雲行きが怪しく先を急ぎます。
白冷圳の施設は対岸にあるために路肩に駐車して吊橋を歩いて向かいます。全長249.2m、幅1.3mで民國57年に完成したものです。赤い看板に注意書きがたくさんあります。一緒に渡れるのは二人まで重量は200kgまで、雨天は通行禁止、合わせて警報がなった場合は馬鞍壩から放水するので退避するように、、、空模様は悪いんだよねぇ

白冷圳-1號渡槽
吊橋を渡って白冷圳の水路沿いに上流に向かいます。橋長22.1mのコンクリート製の水橋です。入水口から1214mの地点です。開渠が続いてきた水路は渡槽手前で暗渠になって渡槽を渡ると再び開渠になります。

白冷圳-沈砂池
更に上流に向かうと長さ50mの入水口からの入った砂を沈降させるための水槽があります。入水口から907mの地点でこの上流が1號隧道となります。

白冷圳-特1號倒虹吸工(白鹿小倒虹吸管)
白鹿吊橋に戻って更に下流へ向かいます。Google Mapで確認できた施設です。水路は橋の手前で暗渠となっています。二號渡槽が桃芝颱風の土石流で被害を受けたために地表下に倒虹吸管を埋設しました。橋は単なる橋のようです。で、とうとう下雨!傘をさしながら白鹿吊橋を渡って戻ります。川面を渡る風に煽られます。
時刻は、、、丁度12時、、、やはり午後からきついかも、、、
2012GW 銅鑼、三義 [文化財]

萊爾富苗縣泰安店
銅鑼に向かう前にちょっと小休止。苗62線上島公路最後のコンビニです。駐車場、トイレ完備で全く便利商店。Google Mapに出てきませんし、綺麗な店内は開店したばかりのようです。租車での旅行に便利なのは日本と同様。冰拿鐵大杯と御茶園で水分補給。日本同様コンビニでも美味しい珈琲が飲めるようになりました。さて、走りましょう。

舊銅鑼分駐所[歴史建築]
東西向快速公路後龍汶水線(台72線)を戻り、途中で119甲縣道に折れて客屬大橋を渡り119縣道を新興路、中正路と走り銅鑼市街地に入りました。客屬大橋でまたしても雨に遭いましたが程なく止んでくれました。
こちらは台湾地方制度改正後の大正9年(1920)新竹州告示第一號頒布「警察官吏派出所名稱位置竝受持區域」にて特定された銅鑼警察派出所です。戦後は銅鑼分駐所使用し、民國57年(1968)に分駐所が中正路に移転してからは退職警察官の住居に使用されていました。大きな改築や損傷の無い建物ですが、補強が必要だそうで公開されていません。
台湾の派出所建築は明治30年(1897)の「警察廳舍及宿舍建築標準」が発布され、明治31年(1898)後、警察は民政に移行し、民間の派出所は事務所と住居を一体に建てられ、明治42年(1909)には「警察官吏派出所建築標準」が発布されました。

銅鑼重光診所[歴史建築]
此方も銅鑼市街地に有る歴史建築です。民國38年(1949)に建てられた和洋中折衷の木造建築で住居を兼ねた診療所で、苗栗の著名作家劉慕莎の住居でした。この時期の大型住宅の数は少なく貴重な文化財であるようです。館内には当時の建築や医療に関する資料が展示されているようですが扉は閉ざされていました。
重光診療所は侯孝賢が監督し朱天文(劉肇芳の外孫女)脚本による冬冬的假期(トントンの夏休み)に使われ、日本のファンの訪問も多いそうです。。。私は映画に興味はありませんが、まぁ、銅鑼駅至近ですし、綺麗な建物ですから興味のある方は訪れてみるのもよいかもしれません。

遠航空難紀念亭
尖豐公路(台13線)を三義に南下して130縣道を右折して建物を探します。そもそも、空難紀念亭に出向こうと思ったのは丁度5年前の同日。遺体の搬送に使われたのが舊山線の勝興火車站で慈済山麓であると言う情報しかなくて、地元の計程車も場所が解からず訪問がかないませんでしたが、今回は130縣道沿い、三義と苑裡の境の情報を得て結局Google Map上でペグマンを操って場所が特定できました。プロットした座標をGARMIN NAVIに入力して訪問がかないました。三義の市街からかなり激しい雨でしたがなんとか小降りになってくれました。
1981年8月22日松山空港発高雄行きの遠東航空103便が離陸して10数分後、三義郷上空で空中分解て山中に墜落し、乗員6名、乗客104名の合わせて110名全員が死亡した遠東航空103便墜落事故の慰霊碑です。乗客には日本人18名が含まれ、その中に台湾への取材のため搭乗していた作家の向田邦子やシルクロード写真企画の志和池昭一郎もこの事故の犠牲になってしまいました。

東屋の中の紀念碑です。誰が供えた花でしょうか。誰が焚いた線香でしょうか。台湾を訪れて、このような碑は必ず掃除が行き届き献花と線香が絶えないのには感慨すら覚えます。あ、私はまたしても途中で購入するのを忘れています。申し訳ない。
多くの犠牲者の中に18名の日本人の名前も刻まれています。向田邦子さんは台湾南部で何を取材しようと、、、もし、日程がずれていたらどんな作品が、、、合掌。。。
あわせてJetStarで関空を発つ皆様の一路平安を祈念したのですが、、、献花も線香も無しでは効き目は無かったようで、出発が大幅に遅れてしまいました。すみませんでした。

建中國小奉安殿[歴史建築]
NAVIの入力を忘れて後回しになってしまいもう一度、三義市街に戻ります。これが幸を成したのか下校時間が終わって一息ついた守衛さんが体育館裏手に案内してくれました。
苗栗縣で唯一奉安殿が残された小学校です。奉安殿は天皇の御真影と教育勅語が奉納されている建物です。三義は三叉と呼ばれていて建中國小は銅鑼灣公學校三叉分校として明治37年(1904)に創立されました。1920年に三叉公學校として独立し、民國39年(1950)建中國民學校、1968年に建中國民小學と改名しました。光復後、政府は日本殖民的文化の象徴の一つである奉安殿の解体を行っていきましたが、建中國小の奉安殿は幸運にも頑丈な造りと、急峻な地形により解体を免れ、2002年に歴史建築に登録されて2003年に修復が行われました。

傍らに勅語奉安所と書かれた石碑が建っています。表面の案配からおそらく当時のものであろうかと思います。

屋頂の鳳凰の飾りですが、緑青では無くて塗装されてしまっているようです。緑青が吹く前はピカピカの青銅製であったと思うのですが、残念な部分でもあります。

建中國小日式宿舍[歴史建築]
奉安殿の真下の日式宿舎も守衛さんが案内してくれました。1936年に竣工した学校長の住居です。1970年から警察官の住居として使用されていました。建中國小に返却された後に台所と便所に僅かな改修が成されたようです。内部は非公開ですが8畳の居間と8畳の寝室、6畳の食堂と2LDKであるようです。綺麗に修復が終わり奉安殿とともに建中國小の歴史の空間になっています。
その後、奉安殿の扉は事務所にお願いすれば開けてくれますよ。と案内されましたが時間も遅いですし、小雨降る中で貴重な扉を開けるのも勿体無いので今回は遠慮しておきました。何れかの天気のよい時にでも、、、とは言え、この親切な守衛さんが何時まで居られるのかは解かりません。ありがとうございました。
さて、本日の見学は終了して中山高速公路(台一線)にて台中の飯店に向かいます。文華路ですので急がないと夜市の渋滞にはまりそうでしたが、まぁ、なんとかたどり着きました。で、逢甲夜市の話題は二日分をまとめて後日と言うことで、まだまだ遺跡見物は続きます。
2012GW 泰安温泉へ [徒然草]

汶水老街
台72線東西向快速公路後龍汶水線の終点まで走って台3線汶水橋を渡って台6線で戻るよううに舊汶水橋を渡ると煉瓦舗装の老街に入ります。
清光緒初年(1875)に客家人が開墾した土地で入墾此地付近の河岸の地形が象の鼻に似ていることから象鼻喙と呼ばれ、獅潭、泰安、大湖地区の苗栗への中継地でしたが台72線の開通に伴い汶水地区を通らなくなり次第に衰退していった町です。近年、社區總體營造の計画により整備されましたが、、、いくら平日とはいえご覧の通り。此方で食べても良かったのですが、お店も閉まっているか開店休業状態。根拠の無い街づくりでは人は呼べないと言う一例でしょうか。
それでは苗62線清安道路に入ります。付近には雪霸國家公園遊客中心。名産の草苺の販売店が林立していますが季節外れ、民宿、景観餐廰も多く見かけますけど、平日ゆえか営業していません。

清安豆腐老街(洗水坑豆腐街) 泰安緑色観光資源導覧遊客中心
苗62線清安道路で泰安温泉に向かう途中にあるちょっとした集落です。泰安郷公所の所在地で衛生所、電信局、郵局および旅遊服務中心が揃っています。古くには冬瓜山(洗水坑山)の洗水坑溪が流れ洗水坑と呼ばれた客家人の泰安開拓の拠点でした。元々、泰雅族人馬都安社の居住地であり日本時代の大正5年(1916)以後に始まった客家移民の開拓はたびたび原住民との衝突を起こしていました。日本人が泰雅族を征服した後、清安に改められました。寂れた遊客中心で、本日は閉まっております。まぁ、清安豆腐老街は道幅が無く、此方に駐車しろって事ですが駐車スペースは更に荒れておりまして、これで良いのかよって感じます。

清安豆腐店
此方がお目当ての豆腐料理の老舗。部落格を検索して、涼拌豆腐に豆腐丸子、炸豆腐丸子、炸豆腐いろいろおいしそうだなぁ、、、と目論んでいたのですが、閉店。平日の老街ってのはこんなもんですよ。まぁ、当てにしていたのはオイラだけでもなくって、路頭に迷う台湾人も多く見られました。
洗水坑溪の澄んだ甘い水が古式に則った豆腐製造に合い洗水坑老街は豆腐街と呼ばれています。政府の一郷一特色の理念の下、城郷新風貌の計画で豆腐街をテーマに60年代の街並みに整備されたようです。

さて、食物屋を探しながら老街をそぞろ歩きますが、、、下雨!!軒先に逃げ込みますが。

そこは黒皮臭豆腐の店内。あららら、雨宿りしたのはオイラだけじゃないのですが、皆、此方で昼飯をオーダーです。

肉燥飯
要するに魯肉飯ですが、所により肉燥飯となります。紙カップにたっぷりのご飯。食べきれないなぁ、、、でもこれが汁だくで結構良い味でして、空きっ腹にどんどん入ってしまいます。

竹筍湯
野趣に富んだ筍のスープです。これまた、限度無い量です。柔らかい筍が灰汁も無くってとっても美味しいですけど半分以上残ってしまいました。

綜合
白皮と黒皮が半分づつ入っています。白皮は普通の臭豆腐です。黒皮に関してはなんと!百年の歴史があるそうで、お店に掲げられた能書きには、当地の豆腐屋の姜さんが醤醃豆腐干を作っていた所、黒い豆腐干になってしまいましたが老闆娘は捨てることなく茶油で揚げてみた所、よい香りと独特の風味になり黒皮臭豆腐として販売を始め、大陸中央首長や國外名人から好評を得て当地の人気小吃となったようです、、、確かに香ばしいのですが、、、味は白皮、普通の方が美味しいような気がします。
さて、雨も上がりましたし次に行きましょう。

さらに苗62線清安道路を走ると何時の間にか上島公路となって虎山橋を渡ると此方が終点です。この先は泰安温泉風景特定區停車場さらに警光山荘に続く小路があるのみです。

警光山荘(旧上島温泉)
泰安温泉の発見は百年前に遡り。1909年に泰雅族必暦社の頭目が温泉を発見した2年後、日本人が源泉に警官療養所を建て、当時は上島温泉と呼ばれていました。光復後警官宿泊所と改名し民國52年(1963)前省主席の黃杰により水雲山荘と命名されました。民國66年(1977)前大統領の蒋経国が訪れた際に泰安温泉に改名しました。
昔の建物は排斥され、民國79年(1990)に新築され警光山荘に改名し、警察官や眷属の他一般にも開放されています。上島温泉時代の遺構を探しましたが見受けられませんでした。

新竹林區管理處大湖工作站虎山駐在所
警光山荘したの日本家屋ですが、、、謂れは解かりません。
それでは銅鑼に向かいます。
出礦坑-台灣油礦陳列館 [文化財]

あちゃー、酒精が残っちゃって頭が重いですけど、熱いシャワーを浴びて飯を食ったらなんとか冴えてきました。完全に酒臭かったら貸してくれなかっただろうなぁ、、、飯店にお願いした的士は遅れに遅れて、ついにキャンセルして路上で拾って高鐵桃園站へ。格上租車の新型マーチ。優恵価格は台湾住民票保有者のみで、網路価格で借用です。あぁ、30分遅れ。近場で満タンに給油して一路苗栗へ。で、左ハンドルのマーチ。すごい違和感に気がついたのですが、センターコンソールが助手席側に向いています。要するに右ハンドル向けの仕様のままです。そして、小さな座席で疲れます。

台灣油礦陳列館
中壢交流道から中山高速公路に入りひたすら南下し苗栗交流道から後汶公路(台6線)を経て東西向快速公路後龍汶水線(台72線)で 開礦村二號平交路口(出礦坑)まで凡そ100km。1時間45分かかりました。
中國石油公司台灣油礦探勘總處に所属し、油田掘削や天然ガスの処理など台湾の石油産業百年以来の過程と変遷を展示しています。民國70年に出礦坑礦場に油礦開發陳列館として設立され、民國79年に新館を建設して台湾油礦陳列館として開放されました。

出礦坑の立体パノラマは地下部分まで表現されていて興味深いものです。

様々なドリルビットが陳列されていました。大小様々、形状も様々で機械屋としては中々美味しい展示内容でした。

出磺坑第一號古油井紀念碑
敷地から少々離れた場所にあります。出磺坑は台湾で最初に石油が採掘された地域で、現在も台湾中油公司により天然ガスの採掘が行われています。初期の住民は石油を知らずに湧き出した硫黄色の液体を硫黄と間違え硫磺窟と呼ばれていました。嘉慶20年(1817)に呉琳芳がここの石油を発見しますが泰雅族の領地に近いために採掘に至りませんでした。咸豐11年(1861)に客家人の邱苟が蛮人殺人による官吏の追跡から逃れ後龍溪で石油を発見し、日産40斤ほどの採掘を行ったのが台湾における石油採掘の始まりとされています。
同治3年(1864)に邱苟は一百銀圓にて採掘権を呉氏に貸した後、一千銀圓で英商寶順洋行に貸出され、採砿権の紛糾を誘発し、同治9年(1869)に淡水廳同知は邱苟を逮捕処罰しますが、外商による採掘は認められず油田は閉鎖されました。牡丹社事件の勃発により来台した勅使の沈葆楨が石油の埋蔵を知り朝廷による採掘が始まり、光緒3年(1877)に、清朝国営により米国から掘削機を輸入し、二人の技師を招聘し日産一千五百斤を産出しました。1年も経たずに、米国技師は清廷担当者と合わずに退職し、労働者の疾病や機器の損傷により翌年に採掘を停止しました。 劉銘傳が台灣巡撫に任命された後の光緒13年(1887)に苗栗に煤油局を設け、硫磺窟は出磺坑と改められ、林朝棟を派遣しますが採掘量は少なく新任の巡撫邵友濂により煤油局は廃止されました。日本統治後に出磺坑は大規模な採掘が行われましたが光復後には石油は枯渇してしまいました。以来天然ガスが発見され現在は中油公司が採掘しています。

さぁ、それでは本命の索道跡を登りながら出礦坑に残された歴史建築物を見て回ります。かなりの傾斜です。

出磺坑北寮舊辦公室[歴史建築]
日本石油会社によって大正13年(1924)に登記された木造の事務所です。民國58年(1969)に改築され東南側にあった出入口が北側に移されました。現在も中國石油公司の事務所に使用されています。

出磺坑舊重機具維修庫[歴史建築]
一見、日本時代の建物に見えますが、民國49年(1960)に中國石油公司により登記されたものです。1970年前後に改築されていますが壁はレンガ造りで屋根は鉄パイプの軒にコンクリート瓦となっています。
その他、舊醫務所や4號宿舍と思われる建物や登録されていない建物などが存在するのですが、残念ながら案内板などが無くて解かりません。とりあえず撮影してありますので手が空いた時にでも調べてみようと思います。

出磺坑8號宿舍[歴史建築]
索道を降りて陳列館脇の巷を入って見ました。こちらにも日式宿舎が点在しています。こちらは大正14年(1925)の日本石油會社の登記資料に存在が確認されている鉱夫の住居です。民國46年の配置図によると5戸の住居がありましたが民國57年(1968)に4戸に改修されています。現在も使っている方が居られる様子です。

出磺坑16號宿舍[歴史建築]
昭和7年(1932)に建てられた鉱夫の住居です。民國46年の配置図によると南寮に4戸の住居がありましたが後に北寮に移されて現在の8戸の住居になっています。こちらは立入が禁止されていました。此方の対面には出磺坑最初の宿舎として日本語で掲示されている建物があるのですが文化財庁には登録されていません。

出磺坑6號處長宿舍
昭和10年(1935)に建てられた66號所長の日式住居です。民國46年(1957)の配置図によると6號宿舍とされています。1970年前後に改築を行い中國石油公司の採油工程處處長宿舍として出磺坑で最高の住居になっています。庭園や防空設施等が付属しているようですが、現在も現役で立ち入りは出来ませんでした。

中油にも冰棒がありました。鳳梨冰棒でほてった体をしばし冷却して次に向かいます。こちらの冰棒は丸い棒で早く食べないと溶けて食べたい所がクルクル回ってしまいます。あぁ、食べ難い。
さて、次に向かいます、、、昼飯、昼飯、、、
中壢-大閘蟹活海鮮樓 [喰らう]

大閘蟹活海鮮樓
あぁ、今回も海鮮です。ゴチなので文句は言えませんし、中壢では美味しいお店なのですが、他にもお店はあるんですけどねぇ、、、また手抜きで写真は以前の物を流用してます。

燙蝦
相変わらずプリプリと新鮮で美味しい蝦です。ワサビ醤油がデフォルトのようですけど私は何も付けずに食べます。蝦の甘味だけで十分です。

炒蛤仔
今日は蛤の炒め物。浅利になったり蛤になったり、、、台湾バジルと一緒に炒める台湾料理の定番です。

真菰竹
真菰竹が旬です。ちょっと和風な味噌炒めで出てきました。

炒青菜
此方のお店では一品サービスが付きます。本日は青菜、、、種類は不明です。

清蒸鮑魚
鮑の蒸し物。まだ蒸し足りません。下に敷いてある豆腐が旨味を吸ってこれもまた美味しくいただけます。

炸蚵仔
珍しく蛎の唐揚を食します。小粒な蛎が定番な台湾ですけど本日は割りと大振りでジューシーに仕上がって美味しかったです。小粒なら小粒でよい酒の肴になります。ってことで、高粱酒の登場。内輪ですから28度と思いきやしっかり58度で出てきました。こっちのが美味いそうです。賛!

蒸蟹
尋蟹と書く種類です。石蟹の仲間でしょうか?硬い殻と甘みの有る肉が美味しい蟹ですが、残念ながら出国前に入れ歯を壊してしまって初日から無理の出来ない状態。あぁ残念無念。

生蛎
台湾人も蛎が大好きです。ワサビ入りの甘酢でいただきます。

清蒸石班魚
で、魚といえば石班といクエの仲間が最高とされています。マジ美味しい魚です。

炒鱷魚
で、これは魚ではないのです。実は鰐なのです。鰐の肉も淡白で美味しいのですが、、、これはどの場所?皮付です。あぁ、勿体無い。ベルトにもバックにもなるのに、無理して食べちゃうとは、、、皮付は結局美味しく無かったです。

炸肥腸
鰐が美味しくなかったので追加で揚物を二品追加です。大腸の空洞に葱を挿して揚げた料理はお酒のお供に最適。つかお酒のあてに頼んだ料理です。あぁ、明日は租車、、、二日酔いは許されないのですが、、、

炸白魚
此方は白魚、、、大きいですけど、、、のフリッター?コレステロールが気になる方は大腸よりもこっちですね。

こだまスイカ
スイカを食って終了です。お腹一杯、気分も上々でカラオケにGO! やばくね???
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